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The Story of Rockland - ロックランド社の歴史と魅力的な人々について ロックランド社の物語(Rockland Immunochemicals社)

掲載日情報:2022/09/01 現在Webページ番号:67289


私たちと一緒に時空を遡り、これまでに聞いたことのないロックランド社の歴史の物語を紐解きましょう。野心的な科学者、勇気ある妻、そして純粋な決断力と前向きな思考力と生命科学への情熱により、損失と財政難を乗り越えたビジネスの魅力的な物語を。


RCK社屋

Rockland Immunochemicals(以下、ロックランド社)は、世界中で使用されている、品質の高い抗体を製造し、機能性ゲノミクス、遺伝子治療、創薬市場における基礎的、応用的、臨床研究のための最先端のツールを製造する世界的なバイオテクノロジー企業です。1962年創業であり、米国ペンシルベニア州フィラデルフィア近郊で抗体とタンパク質の生産能力を備えた60,000平方フィートの製造施設を運営しています。

Vol. 01 主人公:A. ジェームズ・フェンドリック

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主人公のA.ジェームズ・フェンドリックの写真

1950年代、ジェームズは妻と子供たちと共にニュージャージー州に住み、大手製薬会社で、生息環境を模倣した動物飼育施設の監督職にありました。彼は旅行が好きで、自分の仕事も大好きでした。彼の人生は順調でした。
しかし彼は業務に携わりながら、このビジネスの「旨み」に気が付きました。それは、生産コストよりも、得られた原材料の価値がはるかに勝っていることでした。彼は考えました。

自分でビジネスを始めて、このような原材料をもっと廉価で提供したらどうだろうかと。

そこで1962年、ジェームズはニューヨーク州ロックランドに農場を購入し、「ロックランド農場」と名付けました。そこで、彼は動物の組織や血液製品を含むあらゆる種類の原材料を製造し始めました。彼の一番の顧客は、このベンチャーを始める前の雇用主でした。

悲劇的なことに、1年もたたないうちに、その上得意客は事業から手を引いてしまい、ジェームズの会社は滅茶苦茶になってしまいました。決意を固めた彼は、新たなスタートを切るために、ペンシルベニア州ギルバーツビルに拠点を移しました。この大胆な転換により、現在のロックランド社の物語が始まります。

ロックランド社は、1962年から血液製剤の製造を行っており、それ以来、赤血球、血清、血漿、補体試薬などの包括的な商品群を蓄積してきました。
製品の詳細はこちら「ヒト・各種動物由来血液製品」をご覧下さい。



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Vol. 02 悲劇的な運命の転換

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ペンシルベニア州に移転した後、会社は前途多難なスタートを切りました。ジェームズ・フェンドリックは、科学者としては優秀だったのですが、彼の駆け出しのビジネスを何とか軌道に乗せようと四苦八苦していました。そして、そのストレスは彼の健康に予想外のダメージを与え、最終的には心臓発作を起こすまでに至りました。

心臓発作によりジェームズは命の危険にさらされましたが、彼はそれにもめげない、粘り強く不動の男でした。そして会社を財政的危機から救い出すために必要な突破口になるだろうと確信していたあるプランを考案しました。

主治医の制止も振り切り、1973年にジェームズは壮大なアイデアを追求すべく、ソビエト連邦を訪れました。しかし、旅の途中で彼の運命は急転直下しました。到着後数時間で、死の床に臥すことになってしまったのです。夢をかけた生涯の出会いを目前にして、ジェームズはこの世を去りました。

ジェームズがソビエト連邦へ移動した地図

未亡人となったナタリー・ジョイ・フェンドリックにとって、アメリカ合衆国とソビエト連邦が対立する冷戦時代に、異郷で亡くなった夫をアメリカに帰国させるための調整をすることが、最も重要な責務となりました。そして家族の世話をしながらも、その間ずっとロックランド社の将来を案じていました。
しかし、夫のジェームズと同じように、ジョイは強い意志と勇気の持ち主でした。そして、彼女は戦わずして倒れることはありませんでした……。

今日、ロックランド社は、ジェームズが常に夢見ていた企業になることができました。ペンシルベニア州の元の場所からわずか10マイル離れたところに拠点を移し、自然を模した私たち自身の飼育施設と研究室で、何千もの製品を製造しています。このため、当社は製造プロセスを完全に管理することができ、お客様が技術的なサポートを必要とされる場合には、専門家の立場からお答えできます。お手伝いできることがあればお知らせ下さい。

ロックランド社は、これまでユーザーに有用な幅広い種類の抗体製品を製造してきました。特にELISA、免疫組織染色(Immunohistochemistry、IHC)、ウエスタンブロッティング(Western Blotting)などの様々なアッセイに使用できる酵素標識:アルカリホスファターゼ(Alkaline Phosphatase, AP)、ビオチン(Biotin)および西洋ワサビペルオキシダーゼ(Horseradish Peroxidase, HRP)などの、数多くの酵素標識二次抗体のラインナップがあります。
製品の詳細はこちら「Secondary Antibody Enzyme Conjugated(AP/Biotin/HRP)」をご覧下さい。



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Vol. 03 ナタリー・"ジョイ"・フェンドリック・カペル

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ナタリー・

ナタリー・"ジョイ"・フェンドリック・カペル

ナタリー・"ジョイ"・フェンドリック・カペルをご紹介します。

ジョイは、自分の絵に対する情熱を追い求めるためにフィラデルフィア美術館付属美術学校(現在のフィラデルフィア芸術大学)に通い、その後1954年にA. ジェームズ・フェンドリックと結婚しました。夫と同じように旅行が好きで、異国の古美術品や彫像、そして物珍しい品々を世界中から集めて楽しんでいました。

独立心の強いジョイは、妻として家に留まることなく、当時最も大きな百貨店のひとつであったワナメーカーにイラストレーターとして雇われました。その仕事は、自律性、優雅さ、ファッション性、仲間意識など、彼女が憧れる全てを満たしていました。彼女はこの仕事をずっと続けたいと思っていました。

ジョイによるイラスト:J

ジョイによるイラスト

しかし、夫が亡くなった今、彼女はそのキャリアを全て投げ捨てて、ロックランド社の2代目社長兼CEOに就任しなければなりませんでした。
後になって、ジョイは「あの時、自分は世間知らずだった」とよく言っていました。しかし、単に夫の事業の幕引きをするのではなく、彼の遺志を継いでロックランド社を成功させるためには、彼女の根っからの楽観主義と決断力が必要でした。

科学的なトレーニングを受けたこともなく、ビジネスの経験もない彼女は、ロックランド社に新たな情熱を注ぎ込み、数十年かけて変革していく使命を負ったのです。
しかし、彼女は一人ではできないことを知っていました……。

この頃までに、ロックランド社は、アポリポタンパク質、コラーゲン、アビジン、ビオチンなどに対する様々な一次抗体を製造していました。長年にわたる抗体開発の経験が、今日の品質につながっているのです。詳細はウェブサイトをご覧いただくか、カスタム抗体作製についてはお問い合わせ下さい。



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Vol. 04 フランク・ドンブロウスキーとの出会い

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フランク・ドンブロウスキーの写真

フランク・ドンブロウスキー

次に、フランク・ドンブロウスキーをご紹介します。

アメリカ海兵隊にて軍務を務めた後、フランクは妻と2人の子供との生活を始めるために帰郷しました。彼は、アコーディオンでポルカを演奏したり、毎年1週間の休暇を大勢の親戚とビーチで一緒に過ごすのが大好きでした。

1950年代後半、フランクは公認会計士の資格を取得し、独立した公認会計士としてのキャリアをスタートさせました。ビジネスでの成功を目指す若者として、フランクは仕事を見つけ、新規顧客を獲得することに熱心でした。

フランクの初期のお得意様であった、ある生物医学系企業が彼のやる気と頑張りに感銘を受け、彼の助けが必要になるであろう最近CEOが亡くなったばかりの同業の会社(ロックランド社)をフランクに紹介してくれました。

そこで、フランクは新たなチャンスに胸を躍らせながら車を1時間走らせて、ロックランド社の玄関口に立ちました。しかし、ジェームズが亡くなってからまだ数か月しか経っておらず、ジョイは会社を立て直すために奔走しており、フランクに報酬を支払うだけの資金がありませんでした。

しかし、ジョイは不安定な財務を安定させてくれる人材を、フランクは会計ビジネスを成長させるために必要な幅広い経験を積むための新規顧客を、お互いに必要としていたのです。
ジョイにできることは、ただ約束をすることだけでした。できるだけ早くフランクに報酬を支払うという約束です。そして、フランクは彼女のこの言葉だけで仕事を引き受け、40年以上にわたる二人の関係が始まったのです。

ジョイはフランクの毎月の訪問を頼りにするようになりました。フランクは、すぐに単なる会計士としてだけではなく、ロックランド社の立て直しに欠かせない財務アドバイザーとなりました。フランクの会計ビジネスが成長するにつれ、彼はロックランド社を成功させるためには何をすべきか、ジョイに貴重な視点と洞察力を提供できるようになりました。

フランクが加わったことで、ジョイはしっかりした土台を支えるための基盤を得て、ロックランド社の可能性を引き出すための準備と意欲が高まりました。そして、今度は戦略の策定に目を向けようとしていました。

人との繋がりはロックランド社の成功の基盤です。私たちは、長年培ってきたパートナーシップに誇りを持っており、これからも研究者の皆さまとともにライフサイエンスの発見、協力、発展を続けていきたいと考えています。皆さまが取り組んでいることや、私たちがお手伝いできることをぜひお聞かせ下さい。

■オススメ製品群

ロックランド社は、特に感染症研究と体外診断用医薬品の分野において、原料供給業者として重要な抗体や試薬を提供してきた長い歴史があります。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のNucleocapsid ProteinおよびSpike Proteinに特異的なロックランド社の抗体は、世界的な協力者のネットワークにおいて、ワクチン開発や創薬、診断、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)研究のために広く使用されています。



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Vol. 05 ノーマン・カペル博士

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ノーマン・カペル博士の写真

ノーマン・カペル博士

ノーマン・カペル博士をご紹介します。

ノーマンは、オハイオ州立大学で化学の博士号を取得しました。彼は加硫ゴムの化学的性質を研究し、1936年にグッドイヤー・タイヤ社の化学者と共著で論文を発表しました。その論文は、後に米国政府の注目を集めることになります。

第二次世界大戦中、かの有名な理論物理学者のロバート・オッペンハイマーは、ノーマンの専門知識に興味を持ち、マンハッタン計画への協力を要請しました。誰もがそうであるように、ノーマンは仕事の内容について質問しましたが、秘密保持を理由に答えてもらえませんでした。一生に一度のチャンスかもしれないと思ったのですが、ノーマンはプロジェクトに関する情報を得られなかったため、オッペンハイマー博士の申し出を断り、代わりにバイオテクノロジーという新興分野に目を向けたのです。

ノーマンは、「潜在的な需要」に応えるために科学を活用しようという考えを常に持ち合わせており、この熱意から1945年には自らの会社、カペル・ラボラトリーズ社を設立し、当時の主要な病気に対処できるような血液製剤や臨床診断薬を製造しました。ほぼ20年間この仕事を続けたのち事業を売却し、次の潜在的な需要と考える研究用の抗体を作ることにしました。

1960年代には、研究者が市販の抗体製品を入手できなかったことを知っていたノーマンは、世界に先駆け抗血清の製造と抗体試薬の商業的販売を開始しました。ノーマンは、最高レベルの品質を追求し、この努力が彼のキャリアを通しての成功をもたらしたのです。

何年か後、ノーマンは引退の準備をし、再び会社を売却する決心をしました。引退は魅力的に思えましたが、科学は彼に別の進むべき道を用意していたのです。今度はロックランド社での仕事、彼が提供すべきものがまだあったのです。

ノーマンは、フィラデルフィアで開催されたあるライフサイエンスのカンファランスでジョイと知り合い、それから長年の付き合いがありました。ジョイは実業家として、常にロックランド社の試薬を販売する機会を探しており、ロックランド社と車で1時間足らずの距離にあったカペル・ラボラトリーズ社に時々行く機会がありました。

ノーマンは既にロックランド社のことをよく知っていたので、ジョイの次のステップを手伝う方法を知っていました。彼はこうアドバイスしました「抗体に対する抗血清を作る方法をお教えしましょう」。そして、ロックランド社で二次抗体を製造するという戦略が始まり、会社の将来を大きく変えることになったのです。

1980年代以前は、抗体開発はある種の芸術と考えられていました。抗血清を製造して抗体を販売する会社はほとんどなく、私達は現在のグローバル化した抗体市場では見つけることが難しいレベルの品質に対する誇りがあります。ノーマンがロックランド社に与えた影響のおかげで、当社は時の試練に耐えることができました。彼の品質へのこだわりは、今日まで私たちの抗体開発プロセスに根付いています。

ロックランド社二次抗体のDS写真

1969年当時のカペル・ラボラトリーズ社
抗血清(二次抗体)カタログ

■ロックランド社の二次抗体製品群



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Vol. 06 カール・アスコリ博士

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カール・アスコリ博士の写真

カール・アスコリ博士

カール・アスコリ博士をご紹介します。

ニュージャージー州ニューアークで生まれたカールは、科学が大好きでした。彼は9歳の頃からバスに乗ってニューアーク博物館に行き、古生物学のクラスを受講していました。そして、ラトガース大学で生化学を学びました。学部時代は、将来は医学の学位を取ろうと心に決めていたので、週末は地元の病院で瀉血係の仕事をしていました。しかし、採血や救急治療室での勤務をしてみて、医師としての人生は自分には向いていないと悟り、生命科学への道を考えるようになりました。カールは博士号取得のために多くの困難を克服しました。恩師をがんで亡くし、生活費を稼ぐために教師の助手をしなければならず、さらには研究室から締め出しを食らったこともありましたが、彼はマスターキーを密かに手に入れることができました。

学位論文を発表した後、ラトガース大学の薬理学部長であり、カールの人生に大きな影響を与えた叔父から、より多くの経験を積み、成功したキャリアを確保するために、一流の研究所を探すように勧められたのです。

カールはその通りにしました。カールは1988年にウィスター研究所でポスドクとして自己免疫疾患の研究を始めました。そこでは、優秀な教授との共同研究により、抗PML抗体(Progressive multifocal leukoencephalopathy、進行性多巣性白質脳症。潜伏感染することの多いJCウイルスが、免疫力低下に伴い活性化して脳内に多発性の脱髄病巣を来し死に至る難病に関する抗体)をいくつか発見し、また新しい核内ドメインの同定に関する論文を発表することができました。

フェローシップが終了すると、カールはいよいよ仕事に就くことになりました。カールは、キャリアアップの機会を求めて、大手の製薬会社や治療薬のメーカーに応募しましたが、勤務先はなかなか見つかりませんでした。しかし、ある日、友人がロックランド社の新聞記事の切り抜きを送ってきました。それまでは大企業を狙っていたのですが、代わりにもっと小さな会社で働けば、もっと大きな影響を与えることができるのではないかと考え始めたのでした。そこで、ラボ・ディレクターのポジションに応募したのです。

ジョイとノーマンとの面接で、カールは抗体キットを作るアイデアを提案し、この独自な発想で採用されると確信しました。しかし、別の候補者が選ばれ、カールは振り出しに戻ってしまいました。しかし臆することなく、カールはロックランド社に再度応募し、1991年にシニアサイエンティストとして採用されました。常に努力を怠らなかったカールは、その年のうちにラボ・ディレクターに昇進し、ロックランド社の科学的活動を指揮する立場となりました。

キットに関するカールのアイデアは軌道に乗りました。ジョイとノーマンはカールの起業家精神を認め、カールにロックランド社の基盤を革新し構築することを促しました。やがてジョイは、カールの能力はロックランド社の商売道具として使われていたボロボロの研究室を超えるものだと判断しました。そこでジョイは、カールとドニーに新しい研究所の計画作成を依頼したのでした。

カールが最初に抗体キットの開発に着手して以来、ロックランド社は一般的なアッセイキットから最新のキットまで、多くのキットをポートフォリオに加えてきました。実験を最適化したり共通経路を研究したいと考えている研究者など、ロックランド社はコストと時間をかけずに研究を進めることができるキットをご用意しています。

■オススメ製品群

免疫沈降後のウェスタンブロッティングに最適な二次抗体のTrueBlotシリーズ

TrueBlotは還元型抗体の重鎖・軽鎖には反応せず、優先的に未変性(非変性)のイムノグロブリン(Ig)に反応する二次抗体です。

TrueBlotシリーズ特長
TrueBlotの使用例画像

各種HRP標識二次抗体を用いた検出
マウス(A)、ウサギ(B)またはヤギ(C)IgGを用いて各種タンパク質を免疫沈降後、ウエスタンブロッティングを行った。
TrueBlotを使用した条件ではIgG 重鎖や軽鎖は検出されていないことが分かる。

TrueBlotシリーズの詳細はこちら「TrueBlot(True Blot) Western Blotシリーズ」をご覧下さい。



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Vol. 07 ドニー・マーツ

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ドニー・マーツ氏の写真

ドニー・マーツ氏

ドニー・マーツ氏をご紹介します。

ドニーはいつも何でも作ったり、改造したり、修理したりするのが好きでした。それは間違いなく、工業技術者であった父親が、ドニーが子供の頃に自宅の改築を自ら手掛けたことから自然に身についたスキルです。

大人になってからは、地元の建設業者であるニール・ミラー氏に弟子入りし、長年にわたって住宅や商業施設の建設に携わり、後にパートナーとして活躍していました。しかし、ある日、ひとりの顧客から家の納屋の改造を依頼されたことがきっかけで、ドニーは全く新しい道を歩み始めることになります。その顧客とは、(ロックランド社の高品質な抗体製造技術を築いた)ノーマン・カペル博士だったのです。

この仕事で、ノーマンはドニーのことを知り、彼の人柄や仕事の出来を高く評価するようになりました。彼は、ドニーに「独り立ちしても君が忙しく働けるだけの仕事を提供できると」独立開業を勧め始めました。

ノーマンが説得を続けた結果、ドニーはついに独立開業を始める決心をしました。(二代目社長の)ジョイがノーマンに、ロックランドの施設の改修が必要だと言った時、ノーマンはその仕事の担当者として誰がふさわしいかを知っていました!

ドニーはすぐにジョイの「頼みの綱」となり、新しい研究室や生態動物園(ビバリウム)の増設など、ロックランド社の多くのプロジェクトを請け負うようになったのです。数十年の間に、ジョイとドニーは大親友になりました。ドニーと妻は、ジョイの家族と夕食を共にするためだけに、ペンシルバニアからフロリダまで旅行をしたほどです。

ジョイがドニーを信頼し称賛していましたので、ジョイの息子で現在は社長兼CEOのジム・フェンドリックは、新社屋を建設する際に、担当を迷うことなくドニーと彼のチームに任せることにしました。

その後、24ヵ月以上をかけて、ロックランド社の6万平方フィートの製造施設の計画と建設が具体化し、会社の飛躍的な成長への道が開かれ、ジムがレガシーを引き継ぐための新たな基礎が築かれました。



ロックランド社の製造施設には、敷地内の生態動物園に加え、細胞培養室、コンジュゲーション/フラグメンテーション/精製ステーション、品質管理システム、効率的な出荷センターがあり、原材料の生産から最終製品の流通まで、すべてのプロセスを管理することができます。お客様の次のプロジェクトのために、抗体と試薬の安全な供給元としてロックランド社をお選び下さい。

■オススメ製品群

がん免疫学研究などに有用なリコンビナント抗体!!

Rockland社の組換え抗体(リコンビナント抗体、Recombinant Antibody)をご紹介します。がん研究に有用な抗CD45組換え抗体、抗HER2組換え抗体などのラインナップがあります。

400-001-GY3を用いたSKOV-3細胞ライセートのウエスタンブロット像

図. 抗ヒトHER2 Fab フラグメント組換え抗体(#400-001-GY3)を用いたSKOV-3細胞ライセートのウエスタンブロット像
一次抗体(#400-001-GY3)を用いて、SKOV-3細胞ライセート中のネイティブHER2および添加したHER2を検出した(Lane1~5)。
Lane1、8:分子量マーカー
Lane2、6:0.02μg HER2
Lane3、7:20μg SKOV-3ライセート
Lane4、9:0.05μg HER2を添加した20μg SKOV-3ライセート
Lane5、10:0.02μg HER2を添加した20μg SKOV-3ライセート
一次抗体:抗ヒトHER2 Fabフラグメント組換え抗体(#400-001-GY3
二次抗体:HRP標識抗F(ab)'2抗体

リコンビナント抗体製品はこちら「Recombinant Antibodies」をご覧下さい。



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Vol. 08 ジム・フェンドリック(最終回)

Jim Fendrick氏の写真

ジム・フェンドリック

ジム・フェンドリックをご紹介します。

ジムは、ニュージャージー州でジェームズジョイの夫妻の間に生まれ、幸せな子供時代を過ごしました。お金がないことも多かったのですが、リトルリーグの野球を楽しみ、2人のきょうだいと一緒に育ちました。

ロックランド社は、彼の人生の中で常に大きな位置を占めていました。7歳のときから、ジムは会社で時間を過ごし、すぐに第二の実家として大切に思うようになりました。

父ジェームズが亡くなると、ジムは会社により深く関わるようになり、できる限りの手伝いをし、母ジョイやフランクと一緒に財務会議に出席して、可能な限り多くの情報を得るようになりました。

大学に入学すると、彼は経営学を専攻し、サイエンスをもっと学びたいと願って化学を副専攻にしました。しかし、化学の成績は悪く得意分野ではないことがすぐに判明したことから、賢明にもそのコースをやめました。しかし、大学生時代でさえ、キャンパスの地下にあるボイラー室の友愛会の公衆電話から営業の電話を掛けるなど、ロックランド社は彼の活動の中心にありました。

振り返ってみると、人生とビジネスの成功の鍵は人脈づくりにあったとジムは考えています。彼は行く先々で人間関係を築きました。ロックランド社の展示会にも最初に参加し、通路を歩く参加者にキャンディーを投げるなど、型破りな方法で注目を集め、今では世界的に拡大しているディストリビューターネットワークの開拓者でもありました。

ノーマンの指導とカールの科学的な専門知識が相まって、会社にドリームチームが誕生したのです。そして、ロックランド社に情熱を傾ける多くの人々と同じように、ジムもまたロックランド社でのビジネスの成功を見届けようと決意していました。

母ジョイが亡くなった後、ジムのロックランド社への愛と献身は、彼を完璧な後継者としました。その後、大きな成功や失敗を経験しながらも、ジムの決意は揺らぐことはありませんでした。母親と同じように、彼のビジネスに対する情熱は、時が経つにつれて高まっていきました。そのため、ジムとカールはリスクテイクを継続しつつチームを結成し、そしてドニーの助けを借りて、新しいラボを構築しました。

New-Lab-Ceremony

新社屋(製造施設)のテープカットセレモニー


その過程で、ジムは「抗体は科学の未来にとって重要ではない」、「ロックランド社を飛び出して、何かやるべきことを見つけるべきだ」と言われたことがあります。ジムは、傲慢さと無知さのバランスを健全に保ちながら、この重要なオピニオンリーダーの善意のアドバイスを脇に置き、ロックランド社の抗体と関連技術への投資を倍加させる決断を行いました。

今日、ロックランド社とその顧客である大学や政府機関、そして新たな事業として取り組んでいる体外診断薬・農業・獣医学・体外診断領域でのCROおよびCMO部門サービスのお客様方は、その決断から恩恵を受けています。そして、細胞治療、遺伝子治療、RNA治療の素晴らしい可能性が実現するにつれ、世界のコミュニティはライフサイエンス業界の多大な成果から利益を得ているのです。



2022年は、ロックランド社のビジョンである”Advancing Life Science to Foster a Better World”(より良い世界を育むためにライフサイエンスを推進する)という事業を始めて60年の節目の年です。ロックランドの物語に共通するのは「人」です。ロックランド社を愛し、会社の利益のために自らの命をなげうった人々がいなければ、今日のロックランド社の姿はなかったでしょう。

■オススメ製品群

エンドトキシンレベルの定量キット:EndoAlert Endotoxin Kitシリーズ

水溶液中の細菌性エンドトキシン(Endotoxin)をカイネティック比色法により定量するアッセイキットです。細菌性リポ多糖類であるエンドトキシンは、ほとんどのグラム陰性菌において主要な細胞壁成分の1つです。本キットは低レベルのエンドトキシンを検出し、生物学的および環境的試料の完全性を評価するのに有用です。

EndoAlert Endotoxin / Endotoxin ES Plate Kitの製品外観

■EndoAlert Endotoxin Plate Kit
LPS(エンドトキシン)と(1,3)-β-D-グルカン(真菌汚染物質)の両方に反応するため、(1,3)-β-D-グルカンの影響が懸念されない場合にお勧め。

■EndoAlert Endotoxin ES Plate Kit
エンドトキシンのみに反応するように特別に処方されており、(1,3)-β-D-グルカンには反応しない。(1,3)-β-D-グルカンの影響が懸念される場合はコチラのキットがお勧め。

エンドトキシンレベルの定量キットはこちら「EndoAlert Endotoxin Kitシリーズ」をご覧下さい。

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お問い合わせ先

(テクニカルサポート 試薬担当)

reagent@funakoshi.co.jp

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