知りたい!リポクオリティからリピドームアトラスへ
~脂質多様性の生物学から生命の本質に迫る~
慶應義塾大学 薬学部 代謝生理化学講座 教授 有田 誠 先生

掲載日情報:2024/09/17 現在Webページ番号:63336

知りたい!知りたい!リポクオリティからリピドームアトラスへ慶應義塾大学 薬学部 代謝生理化学講座 教授 有田 誠 先生

生体内には様々な機能を有する脂質が存在し、また脂質代謝異常が多くの疾患の背景因子であることから、それらの生体内の時空間ダイナミクス制御を分子レベルで明らかにすることは、新たな創薬標的、早期診断、治療法の開発につながる可能性がある。
我々は、生命の脂質多様性(リポクオリティ)を網羅的に捉える最先端のリピドミクス技術基盤を構築し、それらの分布・局在・脂質修飾を総体として捉えるリピドームアトラスへと展開すること、生体内で脂質多様性やその局在を創り出し、調節・認識・機能発現するしくみの解明、およびその破綻による疾患解明を目指している。


生命の脂質多様性とは

脂質は生体膜を構成し、エネルギー源としての役割に加え、シグナル分子やその前駆体として働く多彩な役割を担う生体分子である。天然に存在する脂質分子の種類は10 万種を超えると推定されており、こうした脂質の構造多様性からさまざまな生理機能が生み出される( 図1 )。

脂質の構造多様性
図1. 脂質の構造多様性

我々は、これらの脂質分子がもつ構造的な特質(リポクオリティ)の違いを幅広く識別できる最先端の質量分析システムを構築し、生体内でリポクオリティが認識・制御される分子メカニズム、およびその破綻による疾患メカニズムの解明を目指している1
脂質はその特性として、単独の分子が生理活性を有するものと、分子集合体として場の制御に関わるものがあり、さらにその分子種や修飾の多様性から未知の機能が発見される可能性が高い。近年のノンターゲット解析を基軸とした質量分析インフォマティクスの発展により、未だ氷山の海に沈む膨大な数の未知分子を探索する事が可能になり、従来のように既知の分子を計測するターゲット解析の枠を超え、アンバイアスに新規の分子構造が推定できる状況になった2。一方で、これまでのリピドミクス研究では臓器や細胞をすり潰して抽出・分析していたことから、脂質分子の空間情報が失われていた。このような背景のもと、生命の脂質多様性および分布・局在・脂質修飾を総体として捉える「リピドームアトラス」を創出し、特定の脂質が作り出す局所環境が、多細胞システムの動態や機能に及ぼす影響を解明・可視化するための技術基盤の構築が進められている( 図2 )。

リポクオリティからリピドームアトラスへ
図2. リポクオリティからリピドームアトラスへ

生命の脂質多様性や局在を可視化する空間リピドミクス

組織や細胞における脂質の空間分布を可視化する手法として、マトリックス支援レーザー脱離イオン化を用いた質量分析イメージング法(MALDI-MSI)が挙げられる3。組織の凍結切片にマトリックスを塗布し、レーザー光を当てた領域でイオン化された脂質分子をMS で検出・アノテーションし、点描画のように2 次元描出する技術である。一方、MALDI-MSI による脂質イメージングには、分子種の網羅性やアノテーションの精度、そしてイオン化抑制に起因する定量性の問題など、課題も多く残されている。我々は、イオンモビリティ質量分析から算出される脂質分子特有のプロパティである衝突断面積(CCS)を新たなアノテーション基準とし、同一領域でイオン化された脂質分子それぞれのアノテーション精度を大幅に向上させることで、現在までに脳組織切片1 枚から450 種類以上の脂質分子種の可視化に成功している。さらに、数十種類の有機低分子(マトリックス)と各脂質クラスのイオン化効率の最適化から、検出できる脂質分子種の幅を広げると同時に、シングルセルレベル(5 μm 解像度)の空間リピドミクス技術開発を進めている。また、特定の脂質分布と細胞タイプとの空間的な重ね合わせを同一切片上で行うために、組織イメージング用抗体プローブを用いるMALDI-HiPLEX-IHC 法4 を導入し、生体内で特定の組織や細胞集団の特徴や変化を「リピドームシグナチュア」として捉えるための研究を推進している。  

脂質多様性の偏在や空間分布を創り出し調節する仕組みの解明

生体内で脂質多様性がいかに作り出され、その局在や代謝バランスがいかに調節されているのかを理解するためには、それぞれの脂質分子種の生合成・分解・輸送などに関わるタンパク質を検出し、それら転写制御および翻訳後修飾など多階層の機能制御機構を明らかにする必要がある。そのため、RNA の局所発現情報(空間トランスクリプトミクス)、酵素の活性化状態や翻訳後修飾を読み解くタンパク質情報(空間プロテオミクス)や、それら空間オミクスデータを統合するための情報科学を駆使して、脂質多様性の分布や制御に関わる代謝酵素、トランスポーター、脂質が作用する受容体・結合タンパク質、および脂質修飾タンパク質の空間情報を包括的に捉えるための統合オミクス解析を進めている。

腸内細菌の脂質多様性と宿主との相互作用

腸内細菌は独自の代謝系を持ち、その構造の特殊性と多様性、および食環境や宿主との相互作用など、腸内細菌叢が作り出す複雑な代謝ネットワークの多くは未解明である。一方で、腸内細菌叢のバランス異常が炎症性腸疾患や大腸がん、メタボリックシンドローム、アレルギー等の様々な疾病と密接に関係すると言われており、新たな治療介入の標的として注目されている。我々は、ノンターゲットリピドミクスと、未知分子の構造推定を支援するMolecular spectrum networking 技術を組み合わせることで、既存の脂質分子種と菌叢との相関関係を明らかにすることに加え、未知の脂質構造を特徴づけることに成功した5。個体の老化の進行に腸内細菌の組成が影響することが知られており、その中には腸内細菌由来の代謝物が寄与する事例がいくつか報告されている。我々はマウスの様々な臓器・細胞・血液に含まれる脂質の多様性およびその加齢変化についてノンターゲットリピドミクス解析を行った。その結果、腸内細菌が産生する脂質の一部が、加齢に伴い選択的に宿主組織に移行・局在することを見出した6
今後は、加齢に伴い脂質が作り出す局所環境を高感度、高解像度で可視化するための空間リピドミクス解析を進め、加齢に伴う細胞や組織固有の機能変化への因果関係の検証を進める予定である。本研究により得られる成果は、加齢に伴う疾患の早期診断や予防・治療への応用が期待される。

おわりに

従来の生物学において、脂質多様性の意義は十分に認識されているものの、10 万種を超えると推定される脂質の構造多様性を包括的かつ高精度に捉えることは極めて困難であった。一方で、高網羅的・未知分子探索型のノンターゲットリピドミクス技術の開発により、これまでに知られていない生体調節機能や活性代謝物の同定につながり、メカニズム不明であった生命現象や病態に対して根本的な解を与えることが期待されている( 図3 )。
さらに、MALDI-MSI による空間リピドミクス解析からは、生体内で特定の組織や細胞集団の特徴や変化をリピドームシグナチュアとして捉えることで、新たな細胞集団の層別化や細胞タイプの発見につながる可能性が広がっている。今後、空間トランスクリプトミクスやプロテオミクスとの統合解析によってリピドームアトラスが構築され、脂質多様性の生物学において新たな仮説を導き出すデータ駆動型研究の新展開が期待される。

最先端リピドミクスから解き明かす脂質多様性の生物学
図3. 最先端リピドミクスから解き明かす脂質多様性の生物学

参考文献

  1. 有田誠, 生化学, 94(1), 5~13(2022).[ doi:10.14952/SEIKAGAKU.2022.940005
  2. Tsugawa, H., et al., NatureBiotechnology, 38(10),1159~1163( 2020).[PMID:32541957
  3. Soltwisch, J., et al., Analytical Chemistry, 92(13), 8697~8703( 2020).[PMID:32449347
  4. Yagnik, G., et al., J. Am. Soc. Mass. Spectrom., 32(4),977~988( 2021).[PMID:33631930
  5. Yasuda, S., et al., iScience,23(12), 101841( 2020).[PMID:33313490
  6. Tsugawa H., et al., Nature Aging, 4(5), 709~726(2024).[PMID:38609525

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